皆さんこんにちは!
ババタクです!
先日、福島に行ってきました!
というのも、里帰りのためです!
300km以上も離れているのでなかなかいくことができないですけど...
そこで今日は福島の今をこのブログを通して皆さんにお伝えできればと思います!
3.11。もう9年前になるんですね。
時の流れは速いもので気づけばあっという間。
9年前は僕が小学3年生。今ではもう18歳と車の免許や選挙権を持つ年になりましたw
この9年という期間に地震や津波、原発事故からどこまで復興したのか...
まず、祖母の家がある飯舘村に向かいました。
飯舘村は、原発事故の影響で帰宅困難区域に指定されていた村です。
(今現在は解除されています)
3月12日の原発爆発のとき、僕と兄は外に出て犬の散歩をしていました。
そしたら急に爆発音が聞こえたんです。
急いで家に帰ってテレビをつけたら、速報で原発が爆発したという報道がされていました。50kmも離れている村に原発の爆発音が聞こえてきたんです。
これは異常事態だと思いますよね!?
焦りに焦りました。子供ながら。
その事故からも9年の月日がたっていて、いまだに不祥事が絶えず報道されています。
除染ででた汚染ごみや福島第一原子力発電所にたまっているトリチウム水の処理方法の問題。
これが、汚染ごみの仮置き場です。だんだん少なくなってはいますが人の出入りが少ないところに多くの汚染ごみがいまだに残っているのが現状です。
でも、原発事故によってでた汚染水や汚染ごみの処理は決して簡単なものではありません。だからと言って9年前まで住んでいた人々の土地である田んぼや畑を勝手に利用して放射線物質が付着したごみを9年も置いていいということでもないんです。
農業で生きてきた村はもう風評被害で農業ができない村になってしまいました。
そして、飯舘村で今問題になっているのは、猿やイノシシによる被害です。
人々がいなくなってしまった村は猿やイノシシにとってはいい住処です。
なぜなら、人間に邪魔をされずに山からおりて食べるものをあされるからです。
9年たち、人々が住み始めた今でも猿やイノシシは絶えず見受けられます。
3月10日。僕は、南相馬市の小高区にあるおばあちゃんの家に向かった。
その道中でも猿が19匹もいました。
3月11日。東日本大震災から9年たった日。
9年たっても行方不明者が何百人といる。
午前中、車を運転し、浪江町方面に向かって行きました。
常磐線全線開通のため、原発付近の駅がどう変わったのか見に行きたかったからです。
初めに双葉駅を見に行きました。
すると駅前のロータリーに見たことない数の報道陣がずらーーーっといたのです。
11日ということもあってでしょうけどかなり驚きました。
報道各社の車で駐車場がいっぱいだったので双葉駅は通り過ぎるだけ....
次に夜ノ森駅を見に行こうと向かいましたが残念ながら避難指示が解除されていなくゲートが張られていて立ち入ることができませんでした。まだ、一般の人が立ち入ることができないみたいでした。
なので、富岡駅に向かいました。
富岡駅前には新しいホテルができていました。
でもすぐ近くの道路では放射線濃度の高い地域になるため立ち入り規制がされていました。
正直、電車を動かすためだけに避難指示が解除されたも同然なんです。
その駅周辺だけが自由に立ち入り可能になり、駅周辺でなければまだ原発事故による立ち入り規制がされているのです。
メディアや政府は常磐線を全線開通させ、駅周辺の立ち入り規制を解除したことで復興が進んでいるというのです。復興のネタにしているだけ。
駅周辺の立ち入り規制は解除されても1kmも離れれば立ち入り規制。もともと住んでいた住民が9年前のように安心して不自由のない生活ができてやっと復興といえるのに電車を動かしてその周辺を立ち入り規制解除しただけ。
メディアの報道は確かに正しいことを言っています。
常磐線は全線開通し、復興の兆しが見えてきている。
でも、実際はそんな甘い話ではなく、写真でお見せしている通り今なお規制線が張られもともと住んでいた住民が帰りたくても帰れない現実。
荷物を取りに帰りたくても今なお家に入ることを禁止されているところもある現実。
このことがメディアで報道されているかどうか。どちらかといえば常磐線開通とか海のものが安心して食べられるとかなどのいい情報が多く報道されているだけであって、悪い方の情報はあまり知られていないんです。悲しい現実です。
富岡駅から浪江町の父の勤める小学校へ向かいました。
車を運転している途中で福島第一原子力発電所が見えたのです。
煙突が短く切られているぐらいのことぐらいしか見えませんでしたが、あの場所で9年前に爆発事故が起きて福島県の多くの人が避難を強いられたんだと思うとその放射能の威力は計り知れませんでした。
いろいろな物質と一緒で目には見えなく、放射線濃度を数値化しても景色は変わらず同じ風景のまま。なのに、人々は強制的に家を出ていかなくてはならず今も多くの人が原発事故のせいで9年たっても避難生活を余儀なくされているのです。
そんなことを思いながら、父の勤める小学校につきました。
去年のこの日は、小学校にももいろクローバーZの皆さんが小学生と遊んでくださったり、ライブをしてくださったりしてくれた日でした。
なつかしいです!
僕も、ももクロさんのライブのお手伝いで行きましたが、子供たちは笑顔で元気よくその時間を楽しんでいました!
そのあとに、僕と小学生と卓球をして遊びました!
今年もその予定でしたが、残念ながらコロナウイルスの影響で臨時休業となり、会うことができませんでした。残念。。。
また来年みんなと会えるのを楽しみに1年頑張ろうと思います!!
そして午後、南相馬市の小高区に戻り、村上海岸に行き、地震や津波で亡くなられた多くの方に黙とうをさせていただきました。
太平洋は恐ろしいものです。いつも静かで夏になれば海シーズンで親子ともどもにぎわう場所であったのに今ではもう誰も遊びに来ない。来られない。
僕もこの村上海岸に来たのは9年ぶりでした。久々に見た太平洋の海はとても恐ろしかったです。しかも、堤防ができていて、9年前の景色とは全然違いました。まるで別世界化のような...
一通り海岸を眺めて祖母の家に帰りました。
この写真を見てください。
海近くの場所には家がないんです。津波で流され、堤防ができても建ってる家がない。
津波を経験してしまった人はあの場所には住めない。住めるはずがないから。
僕の知り合いも9年前の津波で亡くなっている。
その子に限らず、多くの方々が命を落とされました。
海から2km離れた6号線などに下写真のようなこういった看板がいろいろな場所にあります。
2km離れてても津波は来る。
後世に津波の脅威を教え残している看板だと思った。
ここで皆さんに伝えたかった事。
東日本大震災での地震や津波、原発事故に限らずとも世界中の人々が全員、当たり前の生活を送れてはいないこと。
家族がいて友達がいて恋人がいて...そんな生活が今を生きているということが当たり前ではないということ。だからその家族や友人、恋人を大切にして時間を過ごしてほしいのです。
ぜひ、1回でもいい。近頃、福島に行って現状を自分の目で見てほしい。
最後まで見てくださりありがとうございました!
それではまた!!
~最後に~
東日本大震災で亡くなられた方々にご冥福をお祈りするとともに
御家族、御親族の方々におかれましてはくれぐれもご自愛いただき、心穏やかに過ごされますよう心より願っております。